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表現の海に、
小さな帆を立てる。

A quiet sail in a loud ocean.
Current
Overspill— あふれ

Someone Should Tell You

から始まる歌がある。そんな歌詞から始まる歌はきっと世界に沢山ある。あるけれど、私が思い浮かべるのはLemarのSomeone Should Tell Youという曲で、私が16歳から17歳にかけて英国留学していた際に買ったCDでホームステイ先で毎日のように聴いていた。毎日聴いていたわけではない。ipodに曲をダウンロードしてイギリスに持っていった。実家の近所のTsutayaは車で15分のところにあった。当時はつまり2006年はSpotifyなんてなく、ipodが最先端だった。イギリスに行く前に日本の曲を、いや日本の曲だけではなくてジャズとかロックとか有名どころを借り漁って、いまでは信じられないがノートPCにはCDを挿入する引き出しがついていてそこにCDを読み込ませるとitunesが立ち上がり、itunesをipodに繋いで同期するとipodで聴けるようになる。

それで私はipodをイギリスに持っていったが、イギリスにはノートパソコンを持っていかなかった。ホームステイ先はシャーマンという名字の高齢の夫婦でインターネットを引いていなかったから、一年の留学の最中、曲をipodに追加することはできない。できたのかもしれない、やれる方法はあったのだろうけれど、ネットカフェに行ったりしないとインターネットに接続できない環境だったし、なにしろいまよりもネットが身近ではなかった、手間だったのもおそらくあって、日本を発つ2006年4月時点にイギリスに持っていったipodの中の音楽が、私が留学中に外で持ち運んで聞ける音楽のすべてだった。

イギリスでH&Mという犬の、蓄音機に耳を傾けているロゴのCDショップはまだ全盛期で、私の留学した街のメインストリートにもH&Mがっあった。留学に慣れてくるとそこでCDを買った。CDを買って老夫婦の与えてくれた私の部屋に何故かCDコンポがあってそこでCDを聴いたが、なにしろipodにはインポートできなかったので、CDでイギリスの曲を聴いて、ipodには日本の2006年4月時点で入れてきた曲が「固まったまま」入っていた。

私がLemarというイギリス人の黒人R&B歌手、と書くと修飾語ばかりだが、を聴いたのは私が童貞を捨てた時期とほぼ一致していて、年上の日本人女性が相手だった。バレエ留学で来ていた長身の美女だった。それで、私はLemerのCDを彼女にプレゼントしたというのがLemarの思い出なのだが、なにしろLemarは彼女との邂逅以前に気に入っていたので、よく聴いた。留学終わりかけの、17の時だ。

それで話はどこに行くかというと、郷愁とか恋愛のことではない。

私は通勤時にクラシックやミュージカルのサントラを聴くことが最近多かったのだけれど、今朝はUK(イギリス)時代の思い出の曲を巡っていた。そこにはAmy Winehouseがあり、The Kooksがあり、Kings of Leonがあった。そしてその中にもちろん、一つの大切なピースとしてLemarの曲があった。長身の彼女との思い出と共に。それでこの話は音楽の話でもない。

Lemarのアルバムの中のSome One Should Tell Youを聴いたのは今朝、神谷町の改札を抜けてからオフィスに向かうまでのあいだなのだが、地下鉄の通路を今から出勤する人々がスーツをきて流れていて私もその流れに乗った。

Someone should tell youのあとはhow much I love you, because I really do.なのだが、これを日本語で訳すと「私がどれだけ彼女を愛しているか誰か彼女に伝えておくれ、だって本当に愛しているんだ」と私の下手な直訳だが、ここで訳のうまさをみせたいわけではなく、私は神谷町の地下鉄の通路で30歳とか40歳とか50歳とかのオフィスワーカーの群れの中で37歳で、そんな風に思えるのはすごい状態だよな、と感心してしまった、というのは私にそのような「Lemar的」な状態が人生で一度も訪れたことがない、というわけではなく、むしろその逆でそのような状態が訪れたから結婚したり離婚したりしてきたわけで、ただただ、「私がどれだけ彼女を愛しているか誰か彼女に伝えておくれ、だって本当に愛しているんだ」、という気持ちが今後私の中に起こりうるか。で、私には子どもがいるので子どもに対してはそういう気持ちになれるかもしれない、とは思ったのだけれど、異性に対して同じように思えるかどうか、私がこれからの人生でまたそんな風に思いたいかとか、思う可能性がどのくらいあるかと一瞬頭を過ったが、メインは恋の話はではない。あの17歳の時にこの曲を長身の彼女のことに恋焦がれながら聴いたのとまったく同じ気持ちでこの曲をもう一度聴くことはできない。

から始まる歌がある。そんな歌詞から始まる歌はきっと世界に沢山ある。あるけれど、私が思い浮かべるのはLemarのSomeone Should …

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甘い生活

ゴジラをあなたがもし見かけて、たまたまあなたがだけが目撃し、なぜかというとそれはわからないが、とにかくあなただけが目撃し、というのはゴジラの頭の部分だけ少し海上からはみ出していて、海沿いの他の人は気がつかなかった、天気も悪かったし。だからゴジラをその頭頂部のみを見てゴジラだと判断したのもすごいが、恐らく水中の身体の部分も透けて見えていて、咆哮までは聞こえなくても、地鳴りとか、空気の揺れる感じとか波の荒立つ感じとか、とにかくあなたは「あ、これはゴジラだ」と思った。超巨大な未確認生物で厳密にはゴジラではないかもしれないが、そうとしか形容しようがない。ボキャブラリーにはない。周りを見渡してもやはり天気が悪いから誰も外に出ていない、こんな時に限って、だからあなたは何故かそんな危機的かもしれない状況にもかかわらず舌打ちをして、とはいってもゴジラからはだいぶ距離の離れている。

そこでだ、あなたは慌てて海上保安庁に電話したり、ネットニュースを検索したり、タクシーで家に帰ったりするのかもしれないが、ゴジラは微動だにしないので、まいっか、となって、電車で家に帰ることにする。で、家には同居人がいる、家族でも恋人でも友人でもなんでもとにかく友人がいて、あなたは第一声、ただいまも言わず、手も洗わずにその同居人のいるリビングのソファの上に寝そべっている同居人に向かって、

「ねえ、ゴジラがいた!」

と言う。絶対に言う。私は絶対という言葉を普段あまり使わないのだけれど、ここで「今日は一緒に餃子をつくって食べましょう」とはならない。だってあなたはゴジラ(らしき超巨大未確認生物)を目撃したんだから。

「ねえ、ゴジラがいた!」

この「ねえ、ゴジラがいた!」と誰かに伝えたくなる衝動がなぜ起きるのだろうかしら、と私はこの夏はそればかりを考えて毎日を過ごしていた。というと大げさだが、ことあるごとに、私がゴジラ的なものに遭遇して誰かにそれを共有したくなった時に、なんで人は誰かに共有したくてたまらなくなるんだろうと考えた。つまり「さっき、雷が鳴っていたよ!」、「太ったおじさんが半裸で縄跳びをしながら、まいばすけっとで会計待ちをしていたよ!」、「今日の昼に会社のトイレに大きな糞尿が詰まっていて、私の背丈くらいあった!」、とかとか、なんで相手と共有したくなる、というか自分の中だけで完結することができないんだろう、と考えていた。SNSにアップしたり、Xで呟いたりして、直接相手に面と向かって伝えるでなくても、自分の中には留めておけない。自分の中にだけ留めておけないのはなぜかと言うと、溢れるからなんだろうなあ、と私は考えた。だから共有したい、とか誰かに伝えたい、ではなくて、勝手に溢れてくるものなんだろうなあ、と私は考えた。ゴジラを目撃して「ねえ、ゴジラがいた!」と誰にも言わずに胸にしまっておける人が存在しないのは、溢れ出てくるように人間が設計されているそのメカニズムによるものなのか。

で、私が何をここで書きたいかというと、私の中から溢れてきた。「甘い生活」というフェデリコ・フェリーニの映画だ。フェリーニの映画を「道」を去年の10月頃、確か観た。それから「8 1/2」を観て、サントラを聞いてニーノ・ロータの楽曲をSpotifyでよく聴いていた。それで私はよく覚えているのは出張でチェコのプラハに行く機会が今年の頭にあって(それは色々な意味で感慨深い出張だった。いつか書く)12時間くらい、乗り継ぎも含めるともっとかかったその長距離フライトで私は2回目の「8 1/2」と初めての「青春群像」を観た。「青春群像」も自分に嵌る感じがあって、というか自分が嵌ったのか、嵌るということばではなく、自分が拡張されていく感じもあった。で昨晩、フェリーニの「甘い生活」を観たのは、私が学生時代過ごしたHullというイギリスの田舎町のサッカークラブがプレミアリーグに今年の5月に昇進して、数か月前にワールドカップシーズンだったから、そのHull Cityの試合もワールドカップのついでに観れると思ってDAZNの年間プランに3万円以上払って加入したら、ワールドカップの放映はしたが、プレミアリーグはUnextの独占配信らしく、私はその地元のHull Cityの試合を応援する為に、こんどはUnextに加入したが、DAZNのくだりもありサブスクの費用を少しでも回収したく、Unextでなにか映画を観ようと思ったのが昨晩で、その際にフェリーニの「甘い生活」を観たら、すっかり最後まで観てしまって、観終わってとんでもない映画を観たと思った、だからその事をここに書こうと思って、文京区小石川のカフェベローチェで350円のホットコーヒーを啜りながら書いているのだが、たまたま隣の二人掛けのテーブル席にふくよかなおば様が座り、暫くするとスーツ姿のダンディな男性と打ち合わせを始めた、その男性に見覚えがあって、見たら元サッカー日本代表監督の西野朗さんだった。

ゴジラをあなたがもし見かけて、たまたまあなたがだけが目撃し、なぜかというとそれはわからないが、とにかくあなただけが目撃し、というのはゴジラの…

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流通の枠を超えた、
一冊のために。

私たちは、表現の大海から掬い上げた作品に光を当て、手わたしするための小さな出版社です。メジャーからは少し外れるけれど、必要な人のところへ確かに届く。既存の仕組みを通らなかった本を、人の手で選んで、人の手へ。大きな声にはかき消されるけれど、誰かには、たぶんずっと残る本を。その一冊のための帆を立てています。

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